「連載決まったよ」といわれたとき、正直うれしくなかった
——結局、マンガを描き始めたのはいつ頃になるのでしょうか?
稚野 高校を卒業してからです。短大の同じクラスに同級生に「別マ」(「別冊マーガレット」、集英社)でデビューしてる子がいたんですよ。多田かおる先生のところにアシスタントに行っていて……それで刺激を受けて描いてみたらコマが割れたんですよ。最初に投稿したのは18歳のとき。「りぼん」の「もうひといき賞」で1万円くらいもらえたのかな。このとき、隣に名前が載ってたのがさくらももこ先生でした。その後2回くらい「りぼん」に投稿したんですけど、そこから全然上がれない。さくら先生はどんどん上がっていくのを「すごいなぁ」と横目で眺めていて……。
——初投稿はどんな作品だったのでしょうか。
稚野 『赤毛のアン』(新潮社)が大好きで、ああいう服が描きたかったのでカナダを舞台にした作品を。選評には「背景はすごくいいけど人物に魅力なし」「外国である必要なし」と書かれました(笑)。
——その後もコンスタントに投稿を?
稚野 いえ、1本仕上げるのにかなりかかってましたから、そうこうするうちに短大の2年生になっちゃって。女子美の短大に通っていたので、最初はキャラクターデザインができるような会社に入りたかったんですけど、狭き門で。教授に国土計画なら推薦できるといわれて……。国土計画(現コクド)って、西武鉄道とプリンスホテルの大元の会社なんですよ。親は喜びましたので、じゃあそこに入るかと。一旦夢を諦めました(笑)
——どんな業務を担当していたんですか?
稚野 私はグラフィックデザイナーのアシスタントで。デパートとかの前にある懸垂幕とか電飾とかのデザインをしていました。残業はなかったし、今思えばラクでしたね。ただ、会社がスポーツ部を持ってて、しょっちゅう野球やアイスホッケーの応援にかり出されるのがイヤでイヤで。入った瞬間からやめたかったんですけど、推薦なので3年我慢しました。すごくストレスがたまって、違うことがしたくなって……。東京アナウンス学院というナレーションの勉強をする学校に通ったり、マンガを描き始めたり。
——アナウンス学院? 働きながら通ってたんですか?
稚野 一歩間違ったら声優になってたかも……(笑)
——会社を辞めたい反動でマンガを描くことになるとは、おもしろい運命のお導きですね。
稚野 でも、この会社経験があったから『クローバー』が描けたわけなんですよね。人生に何事もムダなしというのは本当だと……マンガを描きたいのに今全然違うことやってると思っている人にいいたいですね。会社で死ぬほど嫌いな上司がいたんですけど、そのおかげで『クローバー』の笹路課長を描けたと思ってます。結局3年で退社して、失業保険をもらっている間に「ぶ〜け」(集英社)に投稿しました。
——なぜ「ぶ〜け」を選んだのでしょう。
稚野 ページ数が多くなっちゃって「りぼん」の規定に合わなかったんです。「別マ」はどうかなと思ったんですけど、別マの先生方って15、16歳でデビューされてる。私、いくえみ綾先生や宮川匡代先生と同い年なんですけど、同年代なのに超キャリアがある雰囲気で、23歳じゃもう遅いかなと思って。32ページ以上の原稿を受けつけてるマンガ誌を探したら「ぶ〜け」に行き当たって賞に入っちゃったんですよ。
——それで、いよいよマンガ1本で行こうと?
稚野 いえ、デビューが決まったと連絡いただいたときは、私はデザインとイラストの仕事をしていたんです。
——アン先生のキャリアといっしょですね!
稚野 所属のデザイナー事務所が担当している雑誌で、イラストに穴が開いちゃって「おまえが描け」といわれたんです。マンガの絵は描けてもイラストの絵は描いたことなかったんですが、先輩のデザイナーさんが「大丈夫。フリーなんて、私はフリーのイラストレーターですっていえばOKなんだから」と。その晩にどうにかそれっぽい絵を描いて。
——一夜明けたらデザイナー兼イラストレーターに!
稚野 UHA味覚糖のマークも、じつは私がつくったんですよ。あれ、本当はキャンディのデザインだったんですけど社長が気に入って会社のマークになったんです。ミュージシャンのツアーグッズの仕事もずいぶんやりました。
——漫画家じゃない人生もあったかもしれないですね。
稚野 そっちのほうがお金はよかったかも(笑)。
——そこから、漫画家デビューにどのようにつながっていったのでしょうか?
稚野 私、仕事っていうのは依頼が来てやるもんだと思っていたので、デビューが決まったといわれてから、依頼が来るのを待ってたんです。それが、半年ぐらいして、編集部から「なんでネーム持ってこないの?」っていわれて驚いたんですよね。
——なるほど。いわれてみればたしかに……。
稚野 それで持っていったのが、小鳥のきょうだいの話。
——それはもしや、作中にも出てきたアレですか!?
稚野 そうです。担当さんにいわれた言葉も、このまんまです(笑)。結局デビュー作は、何度も直されてるうちに制作期間が2週間しかなくなっちゃった。今まで1本描くのに1年半とか2年とかかけてたのに。「こんなに短いスパンで描いたことないんですけど、どうしましょう」っていったら「描いたことないなら描けるかもしれないじゃないか」って。
——うまいこといいますねえ。
稚野 無責任なようだけど説得力があって。素直に「そうか」と。トーンをカッターで削ることさえ知らなくて、紙やすりかけてたり。デビュー作はほんとに直視できなかったです。毎回、本当にたいへんで……デビューして1年半くらいで「連載決まったよ」といわれたとき、『バクマン。』(集英社)なら「やったー!」ってなるところですけど「マジ!? これ毎月やんの?」……って正直うれしくなかった(笑)。
——このときはまだデザインやイラストの仕事も並行していたんですよね?
稚野 そうなんです。連載となったら両立は無理だと思って、マンガ1本に絞る決心をしました。連載ならお金も入るしと。
——「よし、漫画家になる!」みたいな瞬間ってなかったんですね。
稚野 私の人生、だいたいそんな感じです。今、アンティークのお店をやってるんですけど……。これも「いつかやりたいな」と思ってましたが、こんなに本格的にやることになるとは。いろんな準備をして目的に向かっていくというタイプとは真逆みたいです。私の場合は知らない間に漫画家になってたというか。
取材・構成:粟生こずえ
■次回予告
次回のインタビューでは、稚野先生流・ネームスランプ脱出法や、稚野先生と歴代の担当編集の方々とのドキドキ(?)恋愛事情、さらにアン先生の恋の行方についてもじっくりうかがっていきます!
インタビュー第2弾は、6月3日(土)公開予定です! お楽しみに!
稚野鳥子先生の『月と指先の間』も紹介している
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