複雑化する現代。
この情報化社会では、日々さまざまなニュースが飛び交っています。だけど、ニュースを見聞きするだけでは、いまいちピンとこなかったりすることも……。
そんなときはマンガを読もう! マンガを読めば、世相が見えてくる!? マンガから時代を読み解くカギを見つけ出そう! それが本企画、週刊「このマンガ」B級ニュースです。
今回は、「『BLEACH』ついに完結」について。
『BLEACH』第73巻
久保帯人 集英社 ¥400+税
(2016年7月4日発売)
なん……だと……?
先週、『BLEACH』(「週刊少年ジャンプ」連載中)が今秋発売予定のコミックス74巻で完結することが発表された。
7月4日発売のコミックス73巻で明らかにされ、同日発売の「週刊少年ジャンプ」でも「すべての物語、終焉まで■回!!」と残り話数が伏せられたまま、最終回について示唆されたのである。
『BLEACH』は2001年に連載が開始されると、『ONE PIECE』や『NARUTO』とともに新世紀の「週刊少年ジャンプ」を牽引する看板作品となった。
テレビアニメ、劇場アニメ、ミュージカルと幅広い分野でメディアミックスも展開されたのも記憶にあたらしい。
毎週200万部以上を売り上げる雑誌で15年も連載してきた作品が終わるのだから、これは間違いなく“事件”だ。
といったわけで今回は、『BLEACH』とはどのような作品なのか、「週刊少年ジャンプ」の歴史とともに、最終回に向けておさらいしていこう。
『BLEACH』第1巻
久保帯人 集英社 ¥390+税
(2002年1月発売)
主人公の黒崎一護は、連載開始時点では15歳の高校1年生。幼い頃からユウレイが見える特異体質の持ち主である。
そんな一護は、ある出来事を契機として、朽木ルキアから死神の力を譲り受け、虚(ホロウ)と戦うことになる。これが最初の「死神代行篇」(1~8巻)だ。
読者層と同世代(もしくは少し年上)の主人公が、与えられた能力を駆使して冒険の旅に出るという物語構造は、少年マンガの王道といえる。
『幽☆遊☆白書』(冨樫義博)の「霊界探偵編」を引き合いに出せば、『BLEACH』が「王道」の継承者であることがよくわかるだろう。
この「死神代行篇」は、15年の連載を振り返ってみると、いわば“主人公グループの顔見せ”的な意味あいを持つ。
『BLEACH』第9巻
久保帯人 集英社 ¥390+税
(2003年8月4日発売)
そして物語は「尸魂界(ソウルソサエティ)篇」(9~21巻)、「破面(アランカル)篇」(21~48巻)と続く。
倒した敵と仲間になり、仲間グループが大所帯になり、あらたな敵と戦うタームである。
このパターンの前例は、『リングにかけろ』、『聖闘士星矢』(車田正美)、『魁!!男塾』(宮下あきら)など数えあげたら枚挙にいとまがない。
「少年ジャンプ」のお家芸であり、俗に“トーナメントバトル”形式とも呼ばれるスタイルだ。
昨年亡くなった西村繁男氏(「ジャンプ」の3代目編集長)は、「対決ものにしていくのが一番人気を取りやすくて、それが『アストロ(注・アストロ球団)』で当たったんですよ。よくも悪くも『アストロ』のパターンというのは、それ以降の作品『リングにかけろ』『キン肉マン』『ドラゴンボール』に影響してますね」(『マンガ編集術』白夜書房)と述懐しているが、対決マンガの系譜は横山光輝『伊賀の影丸』(1963年)までさかのぼれるし、そのネタ元である山田風太郎の小説『甲賀忍法帖』(1958年)以来の、子ども向け娯楽作品の伝統といえるだろう。
冒険に出た主人公(=子ども)が、だれも知らない世界で、仲間(=友だち)をつくる。それは子どもが社会の成員になるうえで不可欠なことである。
『BLEACH』第49巻
久保帯人 集英社 ¥400+税
(2011年4月21日発売)
順調に死神として成長した一護だが、「破面篇」後、その能力を喪失してしまう。ここで物語は17カ月が経過して一護は高校3年生になるのだが、「能力の喪失と再獲得」を描いたのが「死神代行消失篇」(49~54巻)である。
少年マンガの主人公は、天与の才を駆使して戦うが、その能力は作中で一時的に失われるものだ。
必殺技が効力を失う(『キャプテン翼』で大空翼のドライブシュートがジノ・ヘルナンデスに止められる)とか、能力自体を封印される(『キン肉マン』でキン肉スグルの火事場のクソ力が邪悪神殿に封印される)といったかたちで描かれることが多い。
主人公の能力は、物語の開始当初は、不当なかたちで付与される。
“不当”というと穏やかではないが、生まれつきだったり、与えられたり、ひそかに伝授してもらった能力がそれに該当する。そうした不当性を是正するためには、不当な能力はいったん返却され、自身の努力によって再獲得される必要があるわけだ。
『BLEACH』第55巻
久保帯人 集英社 ¥400+税
(2012年6月4日発売)
そして正当な手段で能力を再獲得した主人公は、最後の戦いに望む。それが現在行われている「千年血戦篇」(55巻~)なのである。
ここまで見てきたように、少年マンガは「平穏な日常の崩壊→力の獲得→冒険に出る→見知らぬ世界で仲間をつくる→能力の喪失と再獲得→ラスボス(敵)との決戦」といったプロセスをたどる。
では敵とはなにか。主人公(読者層と同世代=子ども)が足を踏みいれる未知の世界(=社会)で、権力者として存在する者。それはすなわち大人である。
子どもにとって、乗りこえるべき身近な大人とは、親にほかならない。
そのため少年マンガの世界では、主人公の親は強く設定されるものだ。
『ONE PIECE』のルフィの父親ドラゴンは「世界最悪の犯罪者」であり、『HUNTER×HUNTER』のゴンの父親ジンは「最高のハンター」である。一護の父親も、じつは死神であったことが判明する。
この設定は、ともすれば「主人公の能力の正当性を保証するのは血筋である」とする血統主義に陥りがちだが、そもそもの根本は「親=乗り越えるべき存在」の前提があることは思い出しておくべきだろう。
つまり少年マンガは、「親殺し」という通過儀礼(イニシエーション)としての意味あいを内包している。
子どもが大人になるために必要なものが、少年マンガの構造に織りこまれているわけだ。
しかし現代社会では、大人の権威が失墜し、大人が「子どもにとってのラスボス」たりえなくなっている。そのため少年の力は向かうべき矛先を失いがちだ。規範となるべき大人が存在しないため、子どもたちは力をもてあましてしまう。
ベクトルを失った力(暴力性)とどう向きあうか。それが現代少年マンガの一大テーマである。
それに対するアプローチは2つ。
ひとつは、内面との対話である。『ぬらりひょんの孫』の奴良リクオは自分のなかの妖怪(ぬらりひょん)の血と、『トリコ』のトリコは自分のなかの食欲と、そして黒崎一護も自分の内面の力と向きあうことで卍解を実現する。
その一方で、暴力性を外に求めるパターンも多い。『HUNTER×HUNTER』のゴンにとってのキルア、『DEATH NOTE』のニアにとってのメロ、 『NARUTO』のナルトにとってのサスケなどがその代表例だ。このパターンでは、ありえたはずのもうひとりの自分、自分の半身と向きあうことになる。
独特なセンス(好き嫌いは分かれるが)やバトルシーンの格好よさに魅かれているようでいて、無意識下で、われわれ読者は本作の持つ現代性に共感しているのかもしれない。
長期連載作品は、ファンのあいだでネタ化されがちな傾向にある。また、映像化作品が最終回を迎えたあとは、原作が続いていても「オワコン」などと揶揄されがちだ。
しかし、本作が21世紀の少年マンガ界で果たした役割と位置づけを、あらためて再評価してみてはどうだろうか。
以上を踏まえたうえで、どのようなラストを迎えるのか心待ちにしたい。
<文・加山竜司>
『このマンガがすごい!』本誌や当サイトでの漫画家インタビュー(オトコ編)を担当しています。
Twitter:@1976Kayama