数々のエピソードの中でも、ゲームが前面に出てこない話ほどゲームの存在感が大きい。
友達とワリカンで買ったゴムボートで地元の用水路を下る「川下り少年」で川を下ることが楽しいのは、アウトドアな体験がゲームのように思えるからだ。
ゲームはオカンに見つからないよう布団をかぶせてボリュームを下げ、対戦で負かした相手から筐体を蹴られることに怯える本物の体験だ。
現実の極みである川下りがゲームのステージクリアになぞらえられる感覚は、ゲーマーだからこそ持てる。
アニラジや声優ラジオを語る「電波少年」も、入り口はPCエンジンのスーパーCD-ROMROMをラジカセで再生したことからだ。90年代半ばはゲームの販売媒体がROMカートリッジからCD-ROMへと移ろい、ゲームから声が出るのが当たり前になった頃だ。
「MMO少年」で見ず知らずの人とマルチプレイできるPCゲーム『Diablo』にハマってるのは、テレホーダイが提供されたから。テレホとは23時~翌朝8時までは月極めの一定料金になるサービスでね……と、ネットが“つなぎっばなし”になった今ではなんのことやら。
そういう過渡的なガジェットに飛びつくゲームは、現実の最先端を突っ走っていたし、平均的なリアルを置き去りにしていた。
2002年にチャットで知り合った人達にオフで追い返された「アウェイ少年」も、当時もっとも尖ったアウェイだ。
「MMO少年」や「純愛少年」も、ゲームがあったからこその失恋話。ファンタジー世界でイチャついたから、リアルでがっかりできる。『熱血高校ドッジボール部』でガチで勝ちに行ったから、両想いだった女子との関係もこじれる。
そしてフラレた神崎良太は「俺たちゲーマーの側にいる」と信頼できる奴だ。いや、うまいこと攻略できたステージを隠してるかもしれないけど!
「ゲームへの恩返し」を願う作者だが、ゲームは何かを与えてくれる一方で何かを奪う。最終話「糞袋少年」でゲームをやる気さえ根こそぎ奪われているのも、まぁある意味ではゲーム関連が原因である。
それでも、夢中になってバカになれるゲームは血肉となった体の一部であり、人生だ。
己の心臓をえぐり出すようなナマの体験を描く『ピコピコ少年』シリーズも、その原石を美しくカットした『ハイスコアガール』も、作者が懲りずにゲームを続けたから読める珠玉の作品。
今後、どちらもコンティニューすると信じてます!
『ピコピコ少年SUPER』著者の押切蓮介先生から、コメントをいただきました!
<文・多根清史>
『オトナアニメ』(洋泉社)スーパーバイザー/フリーライター。著書に『ガンダムがわかれば世界がわかる』(宝島社)『教養としてのゲーム史』(筑摩書房)、共著に『超クソゲー3』『超ファミコン』『超超ファミコン』(ともに太田出版)など。