『美味しんぼ』第111巻
雁屋哲(作)花咲アキラ(画) 小学館 \700+税
(2014年12月10日発売)
昨年5月、『美味しんぼ』の“あるシーン”の描写をめぐって世間を揺るがす大騒動が起きた。
問題とされたのは小学館「ビッグコミックスピリッツ」2014年22・23合併号に掲載された第604話「福島の真実その22」。福島第一原発を取材した主人公・山岡士郎が、取材後に倦怠感をおぼえ、鼻血を出すシーンが描かれたのである。
該当のコマはツイッターなどのSNSを介してネット上に拡散し、福島県の風評被害につながるのではないかと大いに議論され、ついには石原伸晃環境大臣がコメントを出す異例の事態となった。
この「福島の真実」編はコミックス110集(2014年9月4日発売)から111集(2014年12月10日)にかけて、全24話が収録された。
このタイミングで、いまあらためて「福島の真実」編を読み直し、あの騒動を引き起こした“「福島の真実」編の真実”を確認する必要があるだろう。
そもそも、なぜ『美味しんぼ』が福島を題材として取りあげるようになったのか、その経緯をおさえておきたい。
多くの読者にとって『美味しんぼ』といえば、「究極のメニュー(東西新聞・山岡士郎)VS至高メニュー(帝都新聞・海原雄山)」の対決料理マンガとしてのイメージが強いと思う。
この対決は現在では一区切りし、コミックス71集以降は「日本全県味巡り」編がストーリーのメインとなっている。山岡たちが日本全国の各都道府県を取材し、取材に応じた実在の人物が作中に登場し、各地の郷土料理や伝統文化を紹介するのがこのシリーズの基本構造だ。
かつては「グルメ」という言葉に代表されるような、きらびやかな「ハレ(非日常)の食事」を扱っていたが、山岡と栗田のハレの席(結婚式)を経由し、現在は「ケ(日常)の食事」を扱うようになっている。
また、従来の『美味しんぼ』はストーリー重視のフィクション作品であったのに対し、「日本全県味巡り」編以降は食文化啓蒙を目的としたノンフィクション性を強めている点も特徴だ。
こうした質的変化があるからこそ、『美味しんぼ』を成立させるには、事実にもとづく公平性や真実相当性が必要になっている点を指摘しておきたい。「マンガだから……」のエクスキューズが通用しない作品となっているのが、昨年の騒動の発端とも言える。
なお、「日本全県味巡り」編では山岡・栗田夫妻に子どもが生まれたり、「究極」「至高」両方の担当記者が後輩へと世代交代したり、山岡と海原の父子相剋に変化があったりと、フィクション部分において物語の進展があるものの、ドキュメント性のある取材リポートが重視されるあまり、人物描写やキャラクターの掘り下げについてのプライオリティは低くなっている。
そこで迎えたのが「福島の真実」編である。
「放射能の危険ゼロ」と検査されたアイガモ米を食べた山岡は、「こんな美味しくて安全なものを消費者が買わないというのも、福島の真実が伝わっていないからだよ。」(110集「福島の真実」<1>)と感想を述べている。
ひとくちに福島と言っても、危険な地域もあれば、安全な地域もある。それがすべて「福島産は危険」と敬遠されるのは真実が伝わっていないからだ、と福島への風評被害をなくすために山岡は福島取材に乗り出すのだ。
「風評被害をなくすためには、科学的根拠を明確にすればいい」という、非常にジャーナリスティックな態度がそこには顕然と表明されている。
それと並行し、海原・山岡父子による福島でのルーツ巡りが進行し、父子の葛藤が徐々に氷解していく。
このように「福島の真実」編は、福島という重大なテーマに挑みつつ、同時に『美味しんぼ』のストーリーを大きく進展させようとする、きわめて意欲的なシリーズであった。
なによりも見所は、回想シーンで登場する若き日の海原雄山だ。天津桃を食べて羽化登仙、美の絶頂に達するヤング雄山のエクスタシー回想シーンは、彼が美に開眼した瞬間であり、長年の読者にとっては必見である。
つまり「福島の真実」編は、当初はいつもどおりの『美味しんぼ』であったのだ。
<16>と<17>では2話ぶんを費やし、文科省が学校に配布する原子力教育の副読本「わくわく原子力ランド」への批判を展開。食に関するエピソードはいっさいなく、料理マンガ的なおもしろさは皆無だが、「日本全県味巡り」編のドキュメンタリー・タッチな性質を考慮すれば、福島問題を総合的に考えるうえで必要と判断したことは理解できる。
このあたりまでは、平常運転の『美味しんぼ』だ。
そしてくだんの鼻血シーンは<22>に描かれる。「福島の真実」編全24話中の22話目だ。
山岡の鼻血に対し、外部被ばくが原因ではないとの医者側の見解を示しつつ、井戸川克隆氏(元・福島県双葉町長)と松井英介氏(岐阜環境医学研究所所長)の「鼻血は低線量被ばくの影響」との説を紹介している。
井戸川氏は2012年4月に参議院の憲法審査会に参考人として招致された際にも同様の説を唱えているので、ことさら目新しいものではない。
このあたりまでは、「そういった意見もある」との、両論併記としてとらえることはできるだろう(山岡はホールボディカウンターによる内部被ばく検査を受けているわけではない。それでも「低線量被ばくの影響」と結論づけるのには、科学的根拠は薄弱とも思えるが…)。
ともあれ、これ以降『美味しんぼ』は、井戸川氏と松井氏の説に寄り添うかたちで物語を進展させていくことになる。
山岡と海原の福島問題に対するコンセンサスは、井戸川・松井説に乗っかるかたちで描かれる。
当初は「福島の風評被害をなくしたい」としてスタートした「福島の真実」編は、その解決の糸口を「科学的根拠」に求めていた。しかし、根拠基準を示す機関(国や東電)への疑念を抱くようになり、そのあとでこの作品における最終的な結論を提示することになる。
その内容は、本編で確認してほしい。その結論に到るまでのロジックの道筋を、正しいと感じるかどうか、読者自身に判断してもらいたい。
われわれ読者には、必ずしも医療や科学の専門知識があるわけではない。どの説が主流であり、傍流であるかも判断は難しい。また、正誤性の問題となればなおさらだ。
だからこそ、つねに情報を摂取し続けなければならない。
「ビッグコミックスピリッツ」公式WEBサイトには「『美味しんぼ』福島の真実編に寄せられたご批判とご意見、編集部の見解」がまとめられており、そこでは医療関係者や自治体、ジャーナリストなど様々な立場からの意見を読むことができるので、参照するのもいいだろう。
とにかく思考停止による結論めいたものにすがりつくのは、絶対に避けなければならない。
さて、政治的イシューを離れた部分では、山岡と海原の父子が和解したいま、『美味しんぼ』は物語を推し進める強烈な推進力を失ったことになる。
このあと「日本全県味巡り」編を続けるにしても、物語をドライブさせる要素としてなにを投入してくるか、気になるところだ。
<文・加山竜司>
『このマンガがすごい!』本誌や当サイトでのマンガ家インタビュー(オトコ編)を担当しています。
Twitter:@1976Kayama