両者は敵でありながら、余人には及ばない境地で深く理解しあっている。
だからこそ両者が対面する場面は、単に敵対者同士がマッチアップするだけではない、複雑な心境が読者にも去来する。
この時、ある仮説が思い浮かぶ。
「もし悟に“再上映”を悪用する意志があったら?」
悟にとって真犯人は“ありえたはずの、もうひとりの自分”なのだろうか。作中である人物が「善行も悪行も本質は同じ」(第5巻第30話)と口にする場面が想起される。
だが、悟には正義を希求する心がある。それが理解者である真犯人との差を決定的にしているところだ。
悟の“再上映”は、たとえば二叉に分かれる叉路でルートを選んだあと、引き返してきて、もう一方の道路を選ぶようなものに思えるかもしれない。
しかし、引き返した彼は、“あらかじめ用意された別の道”を選んできたわけではない。作中の言葉を引用するなら「未来は常に白紙だ」「自分の意志だけがそこに足跡を刻める」(第4巻24話より)。
“再上映”後の悟は、自分の意志と前に進む勇気によって、あたらしい選択肢を生み出してきた。正義を希求する彼の心が、望むべき未来を切り開いてきたわけである。
まさしく『僕だけがいない街』は、勇気と正義の物語といえるだろう。
最後に余談だが、第8巻41話で悟の母・佐知子は、料理中に考えごとをしていて、ネギを折ってしまう。
佐知子が考えごとをしてネギを折るシーンは、過去にも一度あった。その時も今回も、佐知子は“あること”に気づくのだが、彼女が何に気づくのかを比較してみるのもおもしろいだろう。
こうしたリフレインは、作中に何カ所も張りめぐられている。小物だったり、背景だったり、あるいは人物のポーズや構図だったり、じつに多彩だ。
そのたびに僕たち読者は、それこそ“再上映”を体験しているような既視感にとらわれる。再読した時に気づく仕掛けが、この作品の臨場感を大きく盛りあげる要素となっている点も見逃せない。
そして差異を楽しむという点においては、原作マンガ、小説版、アニメ版、実写映画版とラストに到る経路がそれぞれ異なるが、いずれも“ありえたはずの、もうひとつの物語”として触れてみてはいかがだろうか。
<文・加山竜司>
『このマンガがすごい!』本誌や当サイトでの漫画家インタビュー(オトコ編)を担当しています。
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