日々発売される膨大なマンガのなかから、「このマンガがすごい!WEB」が厳選したマンガ作品の新刊レビュー!
今回紹介するのは、『ねじの人々』
『ねじの人々』第1巻
若木民喜 小学館 ¥583+税
(2015年10月16日発売)
ひたすら上から下に読むだけの、横長4コマまんが風のコマ割。
絵がなく文字だけのコマの多用。
まったく表情の変わらない主人公。
『神のみぞ知るセカイ』などの若木民喜作品を期待していると、特殊な描き方に面食らう。
これは「哲学マンガ」だ。
といっても今まであった「哲学」の大家の考え方を紹介・解説する本ではない。
著者が「コギト・エルゴ・スム(我思う故に我あり)」をひたすら思考し、形にしていく。
たとえば女の子のパンツがあるとする。ある少年は、大好きな女の子のパンツ1枚がほしい、その1枚が「真実」だ、と考える。
あるシスターは、無数にあるパンツを数かぎりなく集め続けることで、パンツ1枚の「知」が大きな「知」になり、やがて「真理」そのものに触れることができると考える。
あきらかに違うこの2人の考え方、はたしてどちらが正しいのか? そもそも優劣があるのか。
この問題を、若木民喜は自分の作品『神のみぞ知るセカイ』と『聖結晶アルバトロス』を持ちだして考える。
『神のみぞ知るセカイ』は売れた作品。『聖結晶アルバトロス』は売れなかった作品。どちらが重要か。それは売れた作品だ、と著者(このマンガに描き手として登場する)は言う。
とはいえ、売れてないから優れていないわけではない。仮に1冊しか売れなくても、そのひとりにとって偉大であれば「重要」だ。
こうなってくると、自分の答えは、だれかに証明してもらうようなものなのか? という疑問がさらに生まれる。
ひたすら思考が続く作品。これをふんわりとパンツやら水着やらで包みながら、わかりやすく描いている。
このマンガにも答えはない。むしろこれを読んで、じっくりと「自分ってなんだろう?」と、考えるきっかけづくりのためのマンガだ。
ぼくもパンツを目の前において考えようと思います。
<文・たまごまご>
ライター。女の子が殴りあったり愛しあったり殺しあったりくつろいだりするマンガを集め続けています。
「たまごまごごはん」