普通の両親から生まれる亜人には、普通の家族がいる。
元気いっぱいのひかりに対して、しっかり者の妹ひまり。姉が冷蔵庫に血液パックを入れてたことに抗議する妹、それはひかりが専用の冷蔵庫を置いてもらってるのにズボラをしてるから。キャアキャアいいあいながら、夕飯はレバニラ炒めで一致。つまり、とっても仲がよい。
本作は笑いながらも胸にじんわりする。亜人たちを支える「家族」のあり方が見えるから。
気を使ってますよ、といかにもな配慮は遠慮でもあり、彼女らの居場所をなくすことでもある。ひかりの家族は彼女とフツーに接している。妹も血液パックには慣れていて、家族のルールを守らないことに怒ってるだけ。
現実社会は「人とはちょっと違うこと」に不寛容だ。
本作の世界でも迫害の歴史はあったが、近年では個性として認められ、日常生活に不利な点を持つ亜人に対する生活保証制度まである。だからデュラハンの町京子も、首と体が最長で岡山と東京まで離れたことがある、と笑い話ですまされる。
ここは「差別を乗り越えた」人たちの住むところ。ちょっとうらやましくもある。
なかでもサキュバスの佐藤先生の扱いはオイシい。
自分に対して性欲を亢進させてしまう特性のため、ふだんはジャージの地味な姿。だが自制が緩むと能力が漏れてしまうため、いねむりの可能性のある電車通勤は乗客の少ない早朝か深夜。集合住宅にも住めず、ボロい一軒家でひとり暮らし。
かわいそうだがペット禁止や禁煙など「周囲に迷惑かけない」延長にあり、折りあいの付け方がうまい。
とはいえ、人と違う――だけでは受け止めきれない亜人の「個性」。そこにタイトルの“語りたい”の重みがある。社会が存在を許容していたとして、個人の付き合いではハードルが高い。まず、歩み寄るための最初の一歩が踏み出しにくい。
だから、ひかりは語る。奥手な京子に、なんでデュラハンだと恋愛が不利になるの? と。
雪女の日下部雪に陰口を言った相手に「みんながやってるから」なんて理屈は嫌いだ、と。
語らなければ、相手と向き合わなければ何も始まらない。本作は誰にとっても共感できる「コミュニケーションの物語」なのだ。
悩みを抱えやすい亜人は、家族にも話せないことがある。自分たちの生態に理解ある鉄男のまわりに集まるのも自然ななりゆき。
「人づき合いは“どれくらいまで許容できるか”を探るのが大事」とさとすよい教師で、理由なくモテる主人公ではない。
そう、あくまで教師として悩み相談してるだけ。パンパイアの髪型をかわいいと言って真っ赤にさせたり、雪女を撫で撫でしたり、デュラハンにハグされておっぱいが当たったり、脈無し(のように我慢した)だからと恋愛経験ゼロのサキュバスに惚れられたり……。
いい加減にしろよ!という意味でも、飛び切りのハイスクール亜人“ラブ”コメディなのだ。
『亜人ちゃんは語りたい』著者のペトス先生から、コメントをいただきました!
<文・多根清史>
『オトナアニメ』(洋泉社)スーパーバイザー/フリーライター。著書に『ガンダムがわかれば世界がわかる』(宝島社)『教養としてのゲーム史』(筑摩書房)、共著に『超クソゲー3』『超ファミコン』(ともに太田出版)など。